恐山いた男の独り言

「無という境地?」

最近、山岡鉄舟に関する本を読んだんだよね。山岡鉄舟って知っている人も多いと思うけど、幕末の剣豪で、幕臣として徳川慶喜の命を受けて、駿府に居た西郷隆盛に江戸城開城の交渉に単身で乗り込んだ人だよね。明治になってからは、その質実剛健の人間性を明治政府から認められ、旧幕臣でありながら、明治天皇の侍従にもなった人なんだよね。山岡鉄舟は、色々な一刀流の流派で学び、自ら無刀流という流派を設立した人で、剣術と共に禅にも打ち込み、剣術だけではなく、禅の世界でも悟りの境地を開いた人なんだよね。無刀流の境地は、一言で言えば、「無」の剣術だとその本では言っているんだよね。山岡鉄舟が剣の極意として言っているのは、「敵の好む処に従いて勝ちを得るにあり」(敵に勝とうとするこだわりの心を捨てて、心を自在にすることにより勝ちを得る)とか、「自己あれば敵あり、自己無ければ敵無し」(自分を主張すれば自ずと敵が出来るが、自己を主張しなければ敵も現れない)などという格言を残しているんだよね。つまり、戦わずして勝とか、勝つという気持ちが無いところに勝ちがあるとか、いわゆる自分の心を縦横無限の「無」の境地にすることが剣の極意だと言っているんだよね。その本の解説では、山岡鉄舟は「禅」も深く極めた人だから、「禅」の思想が剣に活かされていると言っていたんだよね。剣の技術を磨かなければ強くはなれないけど、剣の勝負ともなれば、命のやり取りだから冷静で居た方が勝つという事なんだろうね。命のやり取りという、次の瞬間は死ぬかもしれないという極限の世界で、冷静に居れるという事は並大抵の事ではないと思うよね。でもそれが出来るという事は「禅」の世界で言う「覚り」の境地がなければ出来ないと思うんだよね。400年の人生迷いばかりの、いた男としては、是非「覚り」の境地を味わってみたいと思うんだけど、「座禅」って足が痛くなるから、軟弱性格で、こらえ性の無いいた男には無理かもね。

2022年12月12日