恐山いた男の独り言
「コロナ禍でオリンピックを中止する決断の意味」
新型コロナウイルスの猛威が治まらない状態が続いているよね。最近は、感染力の強い、イギリス型とかインド型が多く検出されて、次なるパンデミックの予兆のようで不気味な状態が続いているよね。
そんな中で、オリンピック聖火リレーは着々と進み、東京オリンピックは開催されようとしているけど、最近、オリンピックの中止に関する議論がポツポツと出始めているよね。以前にも、ブログで書いたけど、第四波と言われる、現在の新型コロナウイルスの流行の状況で、オリンピックを開催するのは無謀だという意見もあるよね。でも誰も中止という事を言い出せない、中止の決定が出来ないという状況になっているよね。
あるテレビの解説番組で解説者が言っていたことは、菅総理が中止を決定すると、中止の責任を取らされる形で、次期総裁選の芽が無くなるので中止は言い出せない、と言うんだよね。これと同じことが、他の組織委員会のメンバーにも言える事なんだよね。中止を言い出した人が、責任を取らされて「悪者」になるという社会的構造があるんだよね。誰もが、中止した方が良いのでは?と思っていても、中止を言い出した人が「スケープゴート」になってしまうんだよね。
いた男なんかが思うのは、中止を言い出し中止を決断した人こそヒーローになるべきではないかと思うんだよね。アメリカでも、今の日本に渡航するのは渡航注意勧告が出ているよね。そんな国にオリンピックのために来たい人ってそんなに多くないと思うんだよね。これからの流行の推移にもよるけど、勇気をもって中止を決断した人が「悪者」にされることが無いことを願いたいよね。